触れる
生まれてきた赤ちゃんに自然と触れる。
家族が危篤に陥ったときも、自然と触れる。
祖父が危篤になり私が駆け付けた時は酸素吸入器につながれ意識はなく頻繁に30秒以上呼吸が止まる状態でした。
友人が野口晴哉先生の死にゆく者への愉気という文章を送ってくれ、無心で祖父の手を握り、頭頂に手を当てて愉気をしました。
痴呆だった祖父の介護でくたびれていた祖母を知っているので、助かってくれと願うことも出来ず、だけれども大好きな人が今まさに目の前で亡くなろうとしている。
付き添って愉気をしているあいだずっと、祖父の呼吸は滞りなく同じリズムを刻んでいました。
触れている祖父の温もり以外は何も頭によぎることのない透き通った時間。
人生の最初と最後において行っていることを、私たちはその道程においてどれくらい行っているだろうか。
ダライラマ法王の講演会で、自殺未遂をした女子大生が自分が生きている価値を見いだせないと相談したことがありました。
法王は言葉ではなく、檀上から降りて彼女を抱きしめたんです。
彼女は号泣していました。
人生の半ばで失明した男性が言っていました。
「視力を失って嬉しかったことが一つあるんです。
高校生になった息子がね、手をつないでくれるんですよ。」
そうおっしゃる笑顔がとっても印象的でした。
「触れる」ことでしか出来ないこと、伝わらないこと。
触れるという行為が大切だということはみんな本能では分かっている。
あなたが大事な人に触れたのはいつのことだろう。
大切な人に次回触れるのが、臨終間際なんてことがないように。
そのために「触れる」ことがどのような変化を心身に及ぼせるのかを感じ取っていただきたい。
「触れる」こと「愉気」を行うことが人間関係にどのような温かみをもたらしてくれるのか家族の中で確認して欲しい。
「気」を相手に伝えていく「愉気」を通じて、あなたの家族の中で「触れる」というコミニケーションが当たり前になって欲しい。
「愉気」を行うと不思議なことに人間関係が穏やかなものになっていきます。